記憶や学習に重要な海馬は、タツノオトシゴ(海馬)にそっくりの形であることからその名がつけられた。海馬では、アンモン角と歯状回と呼ばれる2つの領域が、美しい層構造を形成している。アンモン角はピラミッド型の錐体細胞、歯状回は丸い顆粒細胞という神経細胞により形成され、神経回路においてそれぞれ異なった役割を果たしている。形状も機能も異なるこれら2種類の神経細胞は、どのようにして生じ、分化・成熟していくのだろうか。
理研CDBの岩野智彦研究員(非対称細胞分裂研究グループ、松崎文雄グループディレクター)らは、マウスを用いた研究から、転写因子Prox1が顆粒細胞の運命決定に機能することを示し、海馬の神経前駆細胞が多様性を生み出すメカニズムを明らかにした。この成果は、科学誌Developmentに8月15日付けで掲載された。
|
Prox1は神経前駆細胞の成熟過程において、顆粒細胞への分化を方向づける。 |
海馬には、歯状回を形成する顆粒細胞と、アンモン角(CA:CA1、CA2、CA3の3領域から成る)を形成する錐体細胞がある。顆粒細胞はCA3錐体細胞へ、CA3錐体細胞はCA1錐体細胞へと軸索を伸ばして連絡し、神経回路における情報伝達の一翼を担う。顆粒細胞を生み出す神経前駆細胞は、胎生16日ごろから分裂能を失った未成熟な神経細胞を多数作り始め、生後数週にわたる成熟期間のうちに、成熟した顆粒細胞のつまった歯状回が形成される。近年、転写因子Prox1を欠損したノックアウトマウスは顆粒細胞の前駆細胞がアポトーシスを起こして、歯状回がまるごと消失してしまうことが示され、Prox1は顆粒細胞の形成に必須であることが明らかになった。しかし、Prox1は顆粒細胞の増殖期から成熟過程、成熟後の細胞維持の終始にわたって発現していることから、どの時期にどのような機能を果たしているのか、詳細は不明だった。
研究チームは、Prox1を時期特異的に欠損できる条件付きノックアウトマウスを作製し、前駆細胞から生じた未熟な顆粒細胞が分化・成熟する様々な過程におけるProx1の機能を調べた。すると、顆粒細胞の成熟過程後期にProx1を欠損させても、先のノックアウトマウスとは異なって前駆細胞のアポトーシスは起こらず、歯状回のV字構造が形成されていた。しかし、遺伝子発現を調べたところ、顆粒細胞の分化の初期段階の遺伝子発現には大きな変化はないものの、顆粒細胞として成熟する頃に特徴的な遺伝子の発現がそっくり失われていることが分かった。では、途中まで歯状回に存在していたはずの未熟な顆粒細胞は、一体何に変わってしまったのだろうか。
遺伝子解析を続けると、驚くべきことに、Prox1を欠損した歯状回の神経細胞は、CA3錐体細胞と同様の遺伝子発現パターンを示すことが分かった。さらに組織学的解析から、この歯状回を構成する細胞の形態は双極性の樹状突起を持ったピラミッド型であること、また歯状回の神経の一部は、CA3領域を通過してCA1領域にまで軸索伸ばしていることが判明した。どちらもCA3錐体細胞の特徴だ。つまり、遺伝子発現・形態・軸索の走行性という神経細胞の特徴づける3つの指標はすべて、Prox1を欠損した歯状回を構成する細胞がCA3錐体細胞であることを示していたのだ。これらことから、顆粒細胞が成熟する過程でProx1を欠損すると、歯状回に存在する神経細胞は本来の顆粒細胞ではなく、CA3錐体細胞へと分化することが判明した。
次に、研究チームはマウス胎児の海馬の初代培養細胞にProx1を過剰発現させ、その影響を調べた。するとProx1欠損マウスとは反対に、CA3錐体細胞様の発現パターンは失われ、顆粒細胞マーカー遺伝子の発現上昇が認められた。さらに、細胞の形態も双極性の樹状突起を持った丸い顆粒細胞様に変化していた。この結果は、Prox1が海馬の神経細胞の分化を顆粒細胞へと方向づける因子であるという先の結果を強く支持していた。さらに、海馬は大人になってからも神経細胞新生が起こる稀有な脳領域として知られるが、成体の海馬でProx1を欠損させると、新生児と同様に、新生ニューロンはCA3錐体細胞となり、一度顆粒細胞として成熟し機能していた細胞でさえ、遺伝子発現パターンに異常をきたすことが確認された。
今回の研究から、海馬歯状回で未分化な神経細胞が錐体細胞になるか顆粒細胞になるかという選択を行うのにProx1が機能していることが示された。「これまで、海馬の錐体細胞と顆粒細胞はまったく異なる細胞由来であると考えられてきましたが、今回の研究から、これらの細胞の運命は、一つの遺伝子のオン・オフで容易に入れ替わるものであり、神経細胞の誕生後3週間に至ってようやく決定されることがわかりました」と松崎グループディレクターは語る。「このような多能性を維持した細胞分化の仕組みは他の神経細胞にも共通した特徴で、神経回路の形成にあたって、柔軟性と確実性を保証する重要なメカニズムであると考えられます。」
|